hhhaoikのブログ

毎日のことを書きます

兄が瀕死だったら自命を投げ打って助けるか(反語

「ほら、これ火にかけて」と、水一杯のやかんを僕に手渡して母が言った。6歳の僕は、母に少しでも褒められようと家事を手伝っていた。お茶出しに使う水をやかんに入れて沸騰させるくらいであれば、幼い僕にだって出来る。普通に考えれば難しいことではない。ところが母からの指示は僕をひどく困惑させた。手が止まった僕を見てすかさず母が「ほら急いで」と急かしてくる。

この直後に僕は、燃え盛るブルーの炎に向かってやかん一杯の水をぶち撒ける。見事な消火活動だ。白い水蒸気があたりに充満する。決して手を滑らせてこぼした訳ではない。「火にかけろ」と言われたから「かけた」のだ。それを見ていた母は口をあんぐり空けたまま、暫くの間、何が起きているのか理解できていないようだった。

 

僕の兄弟観と映画『レインマン』について

あんまり需要はないだろうけど、今日は僕の兄弟観と『レインマン』という映画の話しをする。酷くどうしようもない内容なので、よっぽど僕に興味ある人以外はそっとブラウザを閉じてください。これで9割が離脱するとふんだ。さて、レインマンは1988年に公開され、アカデミー賞4部門を総なめにした極めて評価の高い映画だ。自閉症ながら天才的な能力を持つサヴァン症候群の兄と自分勝手で向こう見ずな弟との心の絆を描いており、兄役であるダスティン=ホフマンの高い演技力が個人的には凄く気に入っている。

実は僕には、自身を除いた3人の兄弟がいる。兄と兄と弟だ。弟は6歳も年が離れていることもあり、その微妙な距離感が程良い関係を作り出している。昨年、弟の高校受験があり、三流家庭教師として微力ながら面倒を見ていた。弟がどんな奴かというと、僕より身長が5cmほど高く、テニスとサッカーを愛し、常に友達に囲まれているただのイケメンだ。腹立たしいけど仕方ない。一方で兄はというと、これがよく分からない。年は近い。一番上が3歳差、二番目が年子で、幼い頃は何かと三人で行動する機会が多かったが、それが何時まで行われていたのかはよく分からない。気付いたら一切の繋がりが失われ、最後に言葉を交わした記憶すらも残っていない。何を考えてるのか、何をしているのか、僕のことをどう思っているのか、何も知らない。

 兄は自閉症スペクトラムだったらしい

というのも母から聞いただけの話だからどこまでが本当かは知らない。また仮に自閉症だったとしても、映画『レインマン』に登場する兄レイモンドとはまるで性質が異なる。だから本当は違うかもしれないし、知っていても兄の名誉に関わる事なので本当の事は言わない。ところで自閉症スペクトラムとは、「カナー型自閉症」や「高機能自閉症」または「アスペルガー症候群」などの総称のことを言い、概して他人との社会的関係の困難さ、興味関心が狭く、特定のものにこだわるといった性質を伴う。だが最近の研究で分かっているのは、症状にかなりの程度差・連続性があるということ。それを学術的には上述の様な名称で分けているが、そもそもそんな病気は最初から存在しないと主張する人もいるほど曖昧な性質を持つ。兄のプライバシーもあるので詳しい行動については触れないが、あえて幾つか兄の特異だった点を挙げるとすれば、兄は特定のものに対して強いこだわりがあった、他の人と社会的関係を築けなかった、著しく空気を読めなかった。そんなの誰でもそうじゃないかと言う方もいるかもしれないが、少なくとも僕は僕の兄以上に希有な人をなかなか見ない。なので僕はやはり兄はその類いであったのだと思っている。そして僕も同様の性質を軽微ながら持っている。言外の意味を読み取るのが苦手だったり、1分間隔で決めたスケジュールを好み、スケジュールからずれた想定外の事態に遭遇するとパニックに陥ってしまう傾向がある。そして著しく社会性に乏しい。信じるか信じないかはあなた次第です。

 

※詳しく知りたい方は現代ビジネスに連載されている、奥村隆「僕と息子のアスペルガー物語 テレビ制作マンが語る発達障害との戦い」を読むとよく分かります。

 

もちろん言いたいのは、映画『レインマン』で描かれていた慈悲深いエピソードの類いではない

トム=クルーズ演じる弟が、両親の没後、多額の遺産を得ることに錯綜する内に、天涯孤独だと思われていた自分に兄がいる事を突然知る。そして兄弟の絆、家族の存在を再確認してハッピーエンドとなる。その様子がまるで自分の未来の姿のようで、思わず主人公に自分を重ねてしまった、あぁ感動、という訳では勿論ない。一部は類似しているが、結果はむしろ真逆である。当然だが、映画『レインマン』を鑑賞して自分と兄弟について考えてみた。自分と兄弟の関係を、映画の兄と弟の関係と比較したのは間違いないが、まるで異なるものだけを感じた。やはり最後に残るのは「離別・断絶・諦観」といった何とも虚しい感覚だけである。アクション映画を見た後にドキドキ感が残るのと同じで、ただ違うのはまるでその逆の感覚だけが残ったという事だ。

冒頭の「やかんを火にかけた」エピソードは(それが正常なのか異常なのか、自閉症か否かなんてのはどうだって良いが)大人になった僕が始めて過去を振り返ってみて「何かおかしい」と気付くきっかけとなったエピソードである。そして僕は自閉症スペクトラムという言葉に行き着く。また、不気味な存在でしかなかった兄弟に対して違う視点を持つことになったのも、この記憶がきっかけだ。僕に改めて兄弟とは何かを考えさせたのはコイツだ(※ただし前述の様に彼らが、また僕がその症例に当てはまるかどうかは知らないと言っておく)。それは映画『レインマン』の中でさながら弟が、兄の自閉症と向き合い、自閉症を患う兄の気勢と向き合い、兄弟との関係を見つめ直す過程と酷似している。

 両者の間には決定的な違いがある。

だが映画『レインマン』では、両親の死を通じて「残された唯一の肉親が如何に尊いものであるか」を感動と共に描いているのに対し、我が家の場合はまるで逆だ。両親が亡くなれば、それは僕ら兄弟をつないでいる最後の糸が永遠に途切れることを意味していると思う。大事だからもう一回書いておくぞ自分。両親がいなくなったら、もうそれきりだ。これに対して少し寂しく、だけどもまぁ仕方ないよなと大人ぶる僕がいるのであった。信じるか信じないかはあなた次第である。ちゃんちゃん。

 

※『レインマン』の予告動画です。興味のある方はご覧になってみてください。良い映画ですから。


Rain Man Official Trailer - YouTube

今日を振り返ってみて

 最近ホリエモンが話題にしている赤ん坊の鳴き声がうるさくて親の態度が宜しくない問題に対して、僕は「赤子泣いても薬飲ますな」スタンスを取っています。やはり薬は恐いす。で、親の努力やマナーがなってない主張に大しては激しく同意します。まるで分煙が進んでいない暗くてマニアックなカフェに赤ん坊を連れてきて、トークに花を咲かしているママさん。恐らく環境が悪いせいで泣き出す赤ん坊を、平然と店内であやしだすママさん。僕はナシだと思います。皆さんはどう思いますか?